「貨幣空間」で幸福になるには

これは新しい幸福論の本だ。
スタートラインはこの10年ほど大流行している「自己啓発」への違和感。橘玲は、勝間和代に代表される自己啓発の基本的なテーゼである、「やればできる」(誰でも能力を開発することで幸福になれる)に対して、「やってもできない」のだという立場をとる。「わたし」は変えられないからだと彼は言う。。
そしてゴールは、やってもできない「わたし」が「残酷な世界」の中で成功するための橘玲流の成功哲学だ。

残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法
橘玲
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この成功哲学を、橘玲はまえがきで早くも明らかにしている。
つまるところそれは――
伽藍を捨ててバザールへ向かえ。
恐竜の尻尾のなかに頭を探せ。
――ということなんだと。
※まえがきは橘玲のサイトで公開されている。
ネット文化にちょっと通じている人ならこれが、1行目はエリック・レイモンドの「伽藍とバザール」からの、2行目はクリス・アンダーソンの「ロングテール」からのインスパイアで出来上がった教訓だということにすぐ気がつくはずだ。でもなにが言いたいのか、これだけではわからない。
ネタばれになるのでここでは書かないが、正直なところ、この「成功哲学」そのものは、実にあっけないものだ。
実にあっけないのだが、しかし。
このあっけない結論にたどり着く長い論考の過程で彼は、最新の自然科学、社会科学、情報科学、経済学からの収穫を、興味深いエピソードやたとえ話を伴わせながら、次々に援用していく。われわれの常識を裏切っていく、めくるめくエキシビジョンのようなこのツアーこそが、本書の面白さになっている。神やこころの「正体」に言及しているところまであるのだが、まるで人間の世界の成り立ちをすべて解き明かそうとしているかのようだ(膨大な読書ガイドとも言える)。
僕が印象に残ったとこだけメモすると、、
・自己啓発では「わたし」は変えられない。人の知能の70%は遺伝で決まる。また、知能はさまざな能力がモジュールのように組み合わさって構成されていて、どんな能力が優れ/劣っているのかは人によって様々だが、言語的知能、論理数学的知能が優れている人が労働市場で優位になる。
・自己啓発思想のバックグラウンドには社会進化論がある。
・社会進化論はダーウィニズムを社会にもあてはめたもので、西欧による新大陸、アジア、アフリカの植民地化の正当化の背景になった思想。ヒトラーのドイツ、ソビエトの共産主義の背景でもある。
・人間関係には――、
愛情空間(家族や恋人)
友情空間(親しい友人)
上記に知人との関係も含めて政治空間とよぶ。
政治空間の外側には、貨幣を通じて繋がる広大な貨幣空間がある。
・かつての富豪は政治空間の勝利者だった。相手を倒して、権力を奪取する(堤義明)。現代の富豪は貨幣空間で人と人、ビジネスとビジネスを結び付けることで富を生み出す(孫正義)。
・政治空間が貨幣に浸食されている。友情空間もすでに失われつつあり、「ともだちのいない世界」が出現した。愛情空間がモロに貨幣空間と向かい合っているのが現代。
・貨幣空間は冷淡だが、政治空間のように残酷ではない。貨幣空間では市場の倫理を遵守している限り、差別されない。学校でいじめられた子供も、貨幣空間では生きる場所が与えられる。
などなど。
後半、話題はいよいよ「幸福」の問題へと近づいていく。「幸福」はおそらく橘玲という作家の最大のテーマだ。彼は自由について語ることが多いが、自由もまた幸福へのアプローチなのだろう。
なぜわれわれは幸福になれないのか、幸福とはなにか、といった究極的な話題を、進化心理学からの収穫やインターネットで生まれた貨幣を超えた「経済」の事例を引きながら論じていく。そして、グローバルでフラットでフリーでネットワークされたわれわれの世界において、幸福になるための処方箋を書く。まえがきで予告されていた成功哲学が具体的に語られるのだ。
先にも書いたように、それは僕にはなんだかあっけないもののように感じられたし、それを実践して成功するのは決して簡単なことではないとも思うのだけど、橘玲が施策の果てにたどりついた、ひとつの誠実な結論であることは間違いないと思う。
Photo: CC by latvian