「進歩」の次に来るものは?

<div> 三高じゃなくて三低だそうだ。そもそも三高なんて表現自体あんまり聞かなくなったけど、「高学歴・高所得・高身長」が三高で、三低は「低リスク・低依存・低姿勢」。いまモテる男の条件という文脈で三浦展が2009年の著書で論じたもの。</div>
<div><br /></div><div> それを今度は都市や建築の分野に持ち込んで語ったのがこの『三低主義』という本。建築家の隈研吾との対談で構成されている。</div><div><br /></div>

<a href=”http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757142390/oopsmusiccomm-22/” target=”_blank”>三低主義</a><br /><a href=”http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757142390/oopsmusiccomm-22/” target=”_blank”><img src=”http://ecx.images-amazon.com/images/I/41CoU0MndHL._SL160_.jpg” border=”0″ alt=”4757142390″ /></a><br />

<div><br /></div><div><br /></div><div> 建築における三低とは、</div>

 

<div>「低層・低姿勢(かわいい)・低炭素(環境負荷が低い)」みたいなことで、近代の偉大で高層で高尚な建築はもう古いんだと。さらには、「進歩」という近代的価値観がいよいよもって終わりを迎えてるんだと。したがって「三低」がかっこいいんだと。。そういった話をしている。</div><div><br /></div><div> 「三低」は俗っぽく言いかえれば「草食系」ということにならなくもないだろう(少なくともカブる部分は多そうだ)。あるいは、真壁智治◎チーム カワイイの『カワイイパラダイムデザイン研究』という本で説明されているカワイイデザイン、カワイイ建築とも重なる部分があると思う。あちこちで観測されている近代的価値観・近代的態度の終わりを、いろんな人がいろんなところでいろんな表現で語っているということなんだろう。</div><div><br /></div>

<a href=”http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582544355/oopsmusiccomm-22/” target=”_blank”>カワイイパラダイムデザイン研究</a><br /><a href=”http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582544355/oopsmusiccomm-22/” target=”_blank”><img src=”http://ecx.images-amazon.com/images/I/41cOLInFBIL._SL160_.jpg” border=”0″ alt=”4582544355″ /></a><br />

<div><br /></div><div> 僕はあまり三高な人間ではないし、他人からはどっちかというと三低だと思われがちなキャラクターなのであり、したがって『三低主義』に書いてあったことはけっこう自分の感覚とすんなりなじむところがある。あるのだけど、でも読んでて微妙な違和感も同時に感じてしまう。</div><div><br /></div><div> それはたぶん僕のなかに、三高指向が間違いなく存在するからだろう。</div><div><br /></div><div> 「三高指向」な僕は、「進歩」が終わってしまったとき、「進歩」に変わる人間のモチベーションの源泉はいったいどういうところに求めればいいんだろうと思ってしまう。そもそもそんな風に思うこと自体が近代的行動様式の産物であって、もはや古いんだろうか。たしかに「進歩」以外の動機づけで精力的に動いている人もいるなー。</div><div> 若者が海外旅行に行かないとか、外国文学を読まないとか、洋楽を聴かないとか、洋画を見ない、みたいな現象も、彼らが進歩主義者じゃないからだ、と考えるとすんなり理解できることなのかもしれない。</div><div><br /></div><div> でも、やっぱり違和感はある。</div><div><br /></div><div> かつてのロックや1990年代後半からのインターネット、2000年前後のオープンソース、この数年来のクリーンテックといったものに自分自身がぐっと惹かれたのはなぜか。と考えると、それはやっぱりそこになんらかの進歩の最前線があると感じたからだろう。ガンガン進歩している分野はやっぱり刺激的だと思えるし、その進歩が鈍化してくると次はどこが面白いんだろう、といって「進歩」を探そうとする。そういう習性が、たしかに自分の中にもある。</div><div><br /></div><div> だから、合理主義が導く進歩(経済・産業・思想・文化・風俗などあらゆる面での近代化)みたいなものはもうないんだ、終わったんだということになったとき、なんかポカーンと穴が開いたみたいな気分にならないんだろうかとちょっと心配になるのだ。</div><div> 欲望がモチベーションの源泉になり、イノベーションを生み出し、資本主義経済が拡大していくという構図に慣れ親しんできたひとは、これから自分の欲望の持って行き場所をどこに求めればいいんだろう、みたいなことを考えてしまうのだ。</div><div><br /></div><div><font style=”font-size: 0.8em; “>写真:『三低主義』の中で隈研吾が「世界で一番好きな住宅」として挙げているシンドラー自邸。これは三低住宅だそうだ。</font></div><div><a rel=”cc:attributionURL” href=”http://www.flickr.com/photos/marco2001/”><font style=”font-size: 0.8em; “>http://www.flickr.com/photos/marco2001/</font></a><font style=”font-size: 0.8em; “> / </font><a rel=”license” href=”http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/”><font style=”font-size: 0.8em; “>CC BY-SA 2.0</font></a></div>